主賓用の席は、さすがに豪華と言えた。座席からして造りが違うようで、身体のライ
ンに合わせるように、シートがゆっくりと沈み込む。中央からやや右にずれた二階席だ
ったが、中央で聴くのと変わりないように綿密に音響が設計されている、とされている。
また、周りからは見えないように配置された壁もあるために、ほとんど個室のような造
りだった。慣れていないせいか少々落ち着かなかったが、それも演奏が始まればすぐに
収まるだろう。
 開始のブザーが鳴るまで、あとわずかだった。階下のホールを何気なく覗いていると……
そこにあってはならない光景を見た。  ――マリア先輩。  声にはならなかったはずだが、思わず身体が震え、必死にそれを抑えつけた。  あれから二度と学院には姿を現さなかった、あの人が――なぜ? 「あまり良い席をご用意できず、申し訳ありませんでした」  そっとマリアさんの手を取り、彼女が座席に座るのをエスコートする。 「ううん、急なお願いだったのに……ありがとう、アーシノ」 「あなたのためなら、これくらいのこと、なんでもありませんよ」  俺も彼女の隣に腰を下ろし、握ったままだった手を、そっと離す。 「でも、久しぶりのコンサートホールで、少し緊張するわ」  艶やかに笑い、マリアさんはもう一度俺の手を握り返した。  彼女のたっての希望で、彼女がピオーヴァで過ごす最後の夜は、この街の象徴でもあ るコンサートホールで過ごすことになった。  あれから何度も、俺達は二人の時間を過ごした。全てを捨て去ることを、何度も何度 も、繰り返し悩んだが……出した答えは、彼女と街を出ることだった。弱い自分のこと、 醜い自分のこと、それら全てをさらけ出し、それでも彼女は、その全てを受け入れてく れた。  なにも告げず、逃げるようにこの街を去ることに最初は抵抗を感じたものの、手紙を 出せば良いという彼女の言葉を受け、その通りにすることを決意した。  コーデル先生に会ってしまったら、話してしまったら、きっと揺らいでしまう。 その決断を、覆してしまうかもしれない。  だが、それでは俺は変われない。ただ周りの言う通りにピオーヴァで助講師を続け、 やがて正式に講師となり、貴族として恥じないそれなりの評価を受け、それなりの人生 を送り……。全てが、今と変わりないまま、過ぎていくだろう。 「まだ悩んでいるの?」  優しい、声だった。 「悩んでは……いませんよ」 「なら、どうしてそんな顔を?」 「そんなに酷い顔をしてましたか? これでも自信があったんですけどね、こと容姿に 関しては」 「まるで、怒られるのを怖がっている子どもみたいだったわ」  俺の精一杯の強がりを見て、くすくすと彼女は笑った。  考える時間はあった。その上で出した結論だ。もう、悩んではいない。  そう自分に言い聞かせ、マリアさんの顔を正面からのぞき込んだ。 「あなたに会えたのは、奇跡だと思うんです」 「あら、どうして?」 「俺には、崇拝する女性が……三人います」  ずいぶん前に、同じ言葉を誰かに言った気がしたが、それももう、どうでもよかった。 「その全ての女性の名が、マリアだったからですよ」 「一人目は?」 「俺の母です」 「二人目は?」  三人目が自分だという確信のもと、彼女はそう言ったんだろうけど……さすがにそう 聞かれるとは思っていなかった。 「クリストの母親ですよ」 「あ……そういう意味だったのね」  ようやく気づいて、彼女はまた笑った。まじめな口説き文句も、彼女の前では笑い話 に変わる。 「でも、そうすると……あなたはずいぶん大きな赤ちゃんね」 「よしてください、そんなつもりじゃありませんよ」  ――そのとき、コンサートの開始を告げるブザーがホールに鳴り響いた
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